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織田信長

1534~1582 おだ のぶなが
1534年6月23日(天文3年5月12日)生まれ。尾張の戦国大名織田信秀の嫡男である。
幼いころから城主となるが奇抜な振る舞いから大うつけと称されたゆえに家臣から謀反を起こされたが1559年には尾張を統一する。
1560年には足利将軍家の一門に当たる今川義元により攻め込まれるが、休息中の軍に奇襲をかけ、今川義元は討ち死(桶狭間の戦い)。
後に徳川家康と清洲同盟を結び、斉藤氏、六角氏などを倒し、
足利義昭を奉じ上洛する。
しかし、傀儡であると知った足利義昭は武田氏、石山本願寺、毛利氏などと手を結び、反信長包囲網を作る。
信長は延暦寺を焼き討ちや、浅井、朝倉氏を姉川の戦いで破るなど抵抗した。
1576年近江(滋賀県)に安土城を立てた。
武田信玄、上杉謙信など信長の大敵は次々といなくなり、石山本願寺も撤退させた。
1582年06月02日家臣の明智光秀の謀反によって自害(本能寺の変)。


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豊臣秀吉

1536~1598 とよとみ ひでよし
1598年9月18日生まれ。尾張(愛知県)中村生まれとされるが、様々な諸説がある。
今川家家臣松下にのもとで働くが、後に織田信長に仕え出世街道を走る。
秀吉の有名な功の一夜城は後の創作とされる。
浅井・朝倉連合軍との戦いでの軍功が認められ、羽柴秀吉と名乗る。

羽柴とは、織田家の重臣丹羽名秀、柴田勝家の頭の1字を取ったとされる。
中国地方攻略の大将になり、兵糧攻め、水攻めを行う。
本能寺の変の後、直ぐに毛利氏と講和を結び、京都の山崎に引き返し、明智光秀を倒す。(中国大返し、山崎の戦い)。
織田信長の後継者を決める清洲会議で柴田勝家と対立し、賤ヶ岳の戦いで勝ち、徳川家康と戦った小牧・長久手の戦いでも講和を結んだ。
大阪城を建て、関白に就任した。
関東、北東も従え、全国を統一した。
1598年朝鮮に出兵最中に死亡した。
辞世の句は、つゆと落ち つゆと消えにし わがみかな 難波のことも 夢のまた夢。


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徳川家康

1543~1616 とくがわ いえやす
今川家の下で人質生活を送る。名は竹千代。
桶狭間の戦いの後、独立し、織田家と同盟を結ぶ。朝廷の許しを受け、徳川家康と名乗る。
信長の死後は秀吉と対立するが、講和した。
秀吉の死後石田三成を関ヶ原の戦いで破る。
1603年征夷大将軍となる。駿府城に隠居し大阪冬の陣、夏の陣にて豊臣家を滅ぼす。


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林秀貞

はやし ひでさだ

織田信長に、柴田勝家、織田信行とクーデターを図り、家督を信行の物にしようとしたが失敗。
1度は許されたが、数十年後その罪で追放。


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丹羽長秀

1535~1585 にわ ながひで
幼名は万千代。文部両道の将であり、織田信長の信頼も厚かった。
米のように欠けてはならない存在だからと米五郎左と称された。
船の建造、安土城の普請奉公なども成功させた。
本能寺の変の後は、秀吉についた。
羽柴秀吉が「羽」の文字を取ったことも有名である。
不治の病のため、割腹自殺した。


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松永久秀

1510~1577 まつなが ひさひで
将軍を殺し、かつての主君を殺し、大仏殿を焼き払った。
しかし、信長には恭順を示した。その際に九十髪茄子という名器を献上した。
信長に助言をしたり、命を助けたりもしたが、何度も反旗を翻す。
最後には信長に平蜘蛛茶釜を献上すれば許すとしたが、自爆した。


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織田信行(信勝)

?~1557 おだ のぶゆき
織田信長の弟。
織田信長にクーデターを起こそうとしたが失敗。
1度は許されたが、また起こそうとした事が発覚し、信長に殺された。
このことを報告したのは、以前共にクーデターを起こした柴田勝家であった。


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織田信忠

1557~1582 おだ のぶただ
織田信長の後継者。岐阜城を預かる。
武田家を滅亡に追い込むなど功績を上げる。
本能寺の変の際に奮戦するが討ち死にする。


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黒田官兵衛(孝高,如水)

くろだ かんべえ,よしたか,じょすい

姫路城を預かっていたが織田信長につき、羽柴秀吉の軍師となる。
荒木村重が反旗を翻した際、説得を試みるが失敗、牢獄に入れられる。
助けられたが体中がぼろぼろだった。
関ヶ原の戦いの際は、九州統一を図ろうとするが、苦戦と、関ヶ原の戦いのあっけない結末で夢と消えた。


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明智光秀

1528~1582 あけち みつひで
通称十兵衛。
元は斎藤道三の家臣だったとされる。濃姫とはいとこの関係であるという。
斉藤義龍の手により死亡した後は、浪人生活を経て、朝倉義景に仕えた。
鉄砲の腕を買われたとされる。
織田信長と、足利義昭の橋渡しに成功する。
京都奉行の職に就いた。
その他様々な実績を残し、国主となり坂本城を居城とした。
日向守の官位も与えられた。
1582年本能寺を襲い、織田信長を自刃させた。
原因として様々な説があるが、解明されていない。
中国より引き返してきた羽柴秀吉によって討たれた。
落ち延びる途中、土民に殺された。
三日天下と称されたが、実は光秀は生きていて、南光坊天海になり、徳川家康を助けたという説がある。


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上杉謙信

1538~1578 うえすぎ けんしん
幼名は虎千代、元服し、長尾景虎と名乗る。
長尾家の内乱を平定し、家督を譲る。
越後の龍と呼ばれる。
北条氏に敗れた上杉憲政より上杉の名と関東管領を譲り受けた。
川中島の戦いで武田信玄と対決を繰り返す。
毘沙門天を崇拝していた。
敵に塩を送る。
武田信玄の領地は海に面している所がなかったため、塩は輸入に頼っていた。
しかし、輸入を止められたため、困っていた所、好敵手である上杉謙信が塩を送った。


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山本勘助

?~1561 やまもと かんすけ
風貌が悪かったが、武田信玄に認められ取り立てられたとされる。
甲陽軍鑑に軍師としての活躍が記されているが、存在が謎となっている。
川中島の戦いできつつき戦法をあみ出したとされている。


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千利休

1522~1591 せんの りきゅう
宗易。豊臣秀吉の相談役として、巨大な権力を持ったが、切腹を命じられた。
茶聖と称された。侘び茶の完成者。正親町天皇の勅許によって千利休と名乗ることを許された。
辞世の句は、ひっさぐる 我が得具足の 一つ太刀 今此時ぞ 天に抛つ。


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朝倉義景

1533~1573 あさくら よしかげ
足利義昭が頼り、上洛を勧めるが実行せず義昭は信長に乗り換えた。
姉川の戦いでも自分は出撃せず、遊びに明け暮れていた。
最後は縁の深い家臣にも見限られ、滅亡。


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朝倉景鏡

1525~1574 あさくら かげあきら
孫八郎。
朝倉家の重臣であったが、義景を見限り自刃に追い込む。


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朝倉宗滴

1477~1555 あさくら そうてき
朝倉家の重鎮。数代に渡りよく働いた。
一向一揆を鎮圧したり、浅井氏との同盟に一役買うなど文部両道の武将であった。
織田信長の素質も見抜いていた。


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平手政秀

1492~1553 ひらて まさひで
織田信長の後見役を努めた。斎藤家との縁組も取りまとめた。
織田信長を諌める為、自刃したとされるが、息子の所有する馬をわたっての
いざこざに対する責任の為という説もある。


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明智秀満

?~1582 あけち ひでみつ
明智光秀の甥、もしくは従兄弟とされる。
本能寺の変の際、共に織田信長を攻めた。
琵琶湖を騎馬で越え、坂本城へ向かったとの説がある。


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穴山信君(梅雪)

1541~1582 あなやま のぶきみ, ばいせつ
武田信玄の甥にあたる。内政の腕があった。
勝頼との折り合いが悪く、信長、家康に投降した。


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豊臣秀次

1568~1595 とよとみ ひでつぐ
関白。豊臣秀吉の甥にあたる。
羽柴秀次と名乗っていた時期もある。
小牧・長久手の戦いでは采配を誤るが、関東制圧などで功をあげた。
しかし、豊臣秀頼が生まれたことにより立場が変わり、高野山追放、自害。


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足利義輝

1536~1565 あしかが よしてる
室町幕府13代将軍。
塚原ト伝、上泉信綱のもとで剣術を学んだことから剣豪将軍と称された。
朝廷や、自分の名の一字を与えるなど積極的に政治に参加し、幕府の権力の復活に尽力した。

若きころは、細川家と対立していて、京を追われた。
十一歳の頃、将軍職を譲られた。
その際、京に帰還することができたが、細川家と三好家の争いに巻き込まれる。
三好と和睦した後、戦いを再開した。
しかし、敗れた。
その後も三好を倒すため、策を張り巡らせるが、三好三人衆と松永久秀によって暗殺された。

辞世の句は、五月雨は つゆかなみだか 時鳥 わが名をあげよ 雲の上まで。


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真田昌幸

1547~1611 さなだ まさゆき
武田信玄から大きな信頼を得ていた。
処世術が巧みで、織田、上杉など主を変えていく。
家康と対立して戦いになったが、徳川軍を惨敗させる。
関ヶ原の戦いの際は、豊臣家に対する恩から西軍の味方をし、徳川秀忠を足止めし、参戦を遅れさせた。
しかし、軍が勝った為、引退した。


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毛利元就

1497~1571 もうり もとなり
智謀の将。
安芸の国に生まれる。一時期大内家の傘下に入り、尼子家と対決する。
大内義隆を討った陶晴賢を奇襲で倒す。
毛利隆元に家督を譲った。
晩年に毛利隆元、吉川元春、小早川隆景を呼び、
「一本の矢は容易に折ることが出来るが、三本束ねた矢は折ることが困難である。3兄弟もに力を合わせての家を守っていけ」
と、言ったとされるが、江戸時代の創作との見解が有力である。


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豊臣秀頼

1593~1615 とよとみ ひでより
母は浅井長政の娘である淀君、豊臣秀次が切腹したため、豊臣家の跡取りとなった。
幼名は拾丸(ひろいまる)。
父とは違い体格はよかったという。

関ヶ原の戦いの後、徳川家康に領地を奪われ、方広寺鐘銘事件で大坂冬の陣、大坂夏の陣を経て、自害。


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豊臣秀長

1540~1591 とよとみ ひでなが
豊臣秀吉の弟であり通称小一郎、秀吉と異父かどうかの意見が分かれている。
大和大納言。
「公のことはこの秀長に」
と、秀吉から信頼を得ていた。
文部両道の将であり、金ヶ崎の陣などの戦いで活躍し、また、内政も得意であった。


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今川義元

1519~1560 いまがわ よしもと
海道一の弓取りと呼ばれた。
家督争いを経て今川家当主となる。
大原雪斎の手引きで三国同盟を結び、今川家は全盛期を迎えた。
1560年尾張に侵攻した際、桶狭間で織田信長の奇襲を受け、討死。


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柳生宗矩

柳生石舟斎の息子。五男と伝わる。
関ヶ原の戦いに参加した。
徳川将軍家徳川家康、徳川秀忠、徳川家光と三代に仕えた。
家光の時代には剣術の指南役も努めた。
政治に関する能力もあり、大名となった。



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